文部科学省

日本学術振興会


本研究について


現代社会において、西アジア地域の政治、経済、文化に関する諸問題は、常に世界の不安定要素とされ、世界政治の中でまるで鬼子のように扱われてきました。その背景には、西欧社会によるイスラームに対する偏見や、文明の衝突といった言説の中で、西アジアの諸社会が西洋への対立軸として捉えられ、非西洋的な象徴として、スケープゴート化されてきた事実があげられます。現代政治に極めて大きな影響を与えてきたサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突 The Clash of Civilizations』(1996)の中では、ソ連崩壊後の世界の紛争が国家間の抗争から文明間の衝突へと変化し、世界は行き詰ると分析しています。人々は人為的な国境や国旗に従うよりも、自己のアイデンティティが基づく文化や文明に結集するというのです。そのもっとも激しい対立軸が西欧対イスラームでした。しかし、文化や文明を視座とするとき、両者は果たして本当に対立的といえるのでしょうか。

長年にわたってこの地域と接してきた本領域研究に関わる研究者の多くは、そのような風潮に大いなる違和感を抱いてきました。西アジアの自然や文化、歴史の多様性とその豊かさに日常的に触れてきたからです。そして、現在の西アジア社会の特質となっているものの多く、例えば強い血縁集団としての人々の紐帯や唯一神への深い信仰といったものが、イスラーム社会成立のはるか以前にこの地で誕生し、育まれてきたことが改めて確認できるのです。つまり、イスラーム以前の西アジア文明の理解なしに、現代のアラブおよび非アラブのイスラーム社会の本質を理解することなど到底できないのです。そして西アジア文明を深く知ることにより、この文明が達成したムギ作農耕や都市社会、キリスト教といった、日常の基幹食糧・物質文化から生活システム、精神生活に至るまでもが、西欧社会に広範な基盤を提供した事実に突き当たります。そしてその多くが西欧社会を通じて現在のわたくしたちの世界の隅々まで、広く深い影響を与えているのです。古代西アジア文明を視座におくならば、西欧文明とイスラーム文明は同一の文明から出発した直近の兄弟に過ぎず、世界のその他の文明も従兄弟や又従兄弟に過ぎないのです。したがって、西アジア文明の研究は、現代イスラーム社会の理解のみならず、現代世界の根幹部分を正しく理解し相互理解を深化させていくために、極めて重要かつ必須のアイテムに他なりません。

本研究では、古代西アジア地域にかかわる多様な人材を組織し、大学院生などの若手研究者を巻き込みながら文理さまざまな分野の複数の計画研究を同時進行させ、それに公募研究を加えて、西アジア文明学というべき新たな研究領域の構築を目指しています。人類の基層文化としての西アジア文明学の構築です。西アジア地域は、現生人類の出アフリカや農耕の開始、冶金術の発明、都市の形成、文字の発明、領域国家の発達、一神教の成立など、人類史の大転換の舞台であり続けました。特に紀元前1万年前から紀元前1千年紀までの約1万年間は、世界のフォアランナーとして世界史を牽引してきました。そのような歴史プロセスが、現代のあらゆる社会へと繋がる基層文化を作り上げたのですが、残念ながらそうした事実は正当に認識され評価されているとは言えません。強調されるのはむしろ、現在の西アジア地域の紛争やイスラーム社会の特異性ばかりです。私たちは、あくまでも基層文化としての西アジア文明に目を向け、西アジア各地でのフィールドワークを通じて資料を収集、研究を積み上げていくことで、その基層文化を一つ一つ解明し、その特筆すべき先進性と普遍性の根源を抽出し総合することで、なぜ、そしてどのように西アジア文明が現代世界の基層となり得たのかについて解明していきたいと考えています。 計画研究、公募研究では、現生人類の出アフリカ問題の新たなルート追究から始め(計画研究1,4)、農耕牧畜技術の発明・展開(計画研究2,5)、冶金など工芸技術への新たな視点(計画研究3)、都市と文字の展開(計画研究6,8)、セム系言語の発達問題(計画研究7)、一神教の始まり(公募研究)まで、古代西アジアの最も重要な人類史のテーマにそれぞれ新たな視点から取り組みます。これを背後から支えるのが自然科学分野から参加する多様な計画研究群です(計画研究9~12)。アイソトープ、地質構造、地震、石材の微細構造といった様々な研究分野を有機的に結び付けることで、西アジアの人間社会の歴史と自然環境との関連を体系づけていきます。また、様々な研究成果をフィールドである西アジア諸国に還元していく一環として、文化財の化学分析と保存を担う研究(計画研究13)も設けています。フィールドワークの実施に当たっては、 これまでの西アジア各国での調査実績を生かしつつ、緊急発掘調査などの国際協力事業をも視野に入れ、大学院生やポストドクターなどの人材育成を含め若い活力を積極的に登用しつつ、新しい地域や研究分野も開拓したいと考えています。研究法としては考古学、歴史学、言語学などの人文学が主体となりますが、人間生活の背景となった自然環境の復元には環境科学や分析化学などの自然科学的研究法も動員します。

 

① 上にあげた個々のテーマの一つ一つが人類史全体にとって重要ですが、本学術領域ではこれらを連鎖する一連の歴史プロセスと捉え、全体に共通しかつ継続する要素を探究していきます。イスラーム以前の西アジア文明自体をダイナミックな有機体と捉えて、その原動力を探究するという、これまでわが国では全く試みられなかった新しい研究領域の開拓を目指しています。

② 文明の衝突論のような一方的で政治的な思想が現代における西アジア社会の把握を困難にしている現状があります。それに対して基層文化や文明の研究を積み上げることで、新たな西アジア地域像を創造し、広げていきたいと考えます。

③ 5年間の研究期間内で、前述の個別研究を深化させることは無論ですが、これら全体に共通する要件を明らかにします。他地域の文明と比較したときに、特に西アジア文明に特徴的な先進性と普遍性をもたらした要件です。それを、地形的、環境的、文化的など様々な側面から追究します。西アジアは地形的に3 大陸の結節点に位置し、高い山地と地球上の最低地が同居し、大河と砂漠に代表されるようなコントラストの強い環境条件などが、人類史上の転換点となる必要諸条件を生み出しましたが、そこに次々と人間グループが到来し、実に多様な活動を展開します。領域として最も重視するのは、人類史の転換にあたってのこうした人文的要件であり、歴史プロセスの中にその要件をあぶり出します。

④ 個々の計画研究の目的は、多様な研究者による新たな視点や手法によってそれぞれのテーマのさらなる展開を目指すことですが、領域全体としては、西アジア文明学という日本ではまだ謳われたことのない新たな学術領域の創成を目指しています。

⑤ 本学術領域の発展により、我が国で初めての西アジア文明を専門的に研究する拠点が誕生します。そこでは先進性と普遍性をキーワードに人類史的な転換点に関する重要テーマが文理融合型の研究によって解決が図られるとともに、研究成果を現代における西アジア地域理解に生かしていくような研究も目指しています。