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発掘調査: 層位と遺構

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図1 発掘区

2003年に実施した表面採集調査 (Miyake 2005)に続き、2004年から発掘調査が開始されました。遺跡の南斜面に5m x 5mのグリッドを設定し、現存する遺跡の最高点にかかる発掘区北端に1Y 区、道を 挟んでサラット川に面した斜面には1A-1E 区と2A-2C 区としました(図1)。

2009年までに、全発掘区において地山まで発掘が完了しています。現地表面の最高点から、検出された地山の最低地点までは約4.5mの比高があり、地表から地山までの堆積は12層に分けられています。さらに出土土器の分析結果に基づき、各層は1期(最古期)、2期(中期)、3期(最新期)の3時期に分類されています。放射性炭素年代の測定では 6500から6200 cal. BCの値が得られていますが、1期から出土した土器は、北メソポタミアや北レヴァントの最古段階の土器の特徴を示しています。一方、3期の土器はプロト・ハッッスーナ式の土器に該当します。先土器新石器時代の居住層は検出されず、表土から掘り込まれた鉄器時代の土坑が一基、イスラーム時代の土坑が多数見つかっています。

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図2 遺構配置図

新石器時代の遺構では、ピゼ壁からなる矩形の建物、地上式の炉、半地下式の炉(石蒸焼き炉)、土坑、敷石状遺構が検出されました。ピゼ壁建物に伴い乳幼児の埋葬人骨も複数見つかっています。発掘区が狭く遺構が検出されなかった3 期は別として、1 期と2 期に関しては、1 期でのみ確認されている敷石状遺構を除けば集落を構成する遺構のタイプに大きな違いは認められません( 図2)。独立して配置されるピゼ壁建物を中心に、屋外に設けられた地上式の炉と複数の半地下式の炉が基本的な構成単位となっています。

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図3 132号遺構


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図4 38号遺構
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図5 34号遺構
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図6 166号遺構の小部屋
から出土した土器片

ピゼ壁建物は基礎に石が使用されず、地面に直接土壁が構築されています。基本的に長方形のプランを呈し、内部は仕切り壁によっていくつかの部屋に分割されています。132 号遺構からは彩色されたプラスター片がある程度まとまって出土しており(図3)、本来建物の壁を装飾していた漆喰の破片であると考えられます。

ピゼ壁建物の特徴の一つは、いくつかの層にわたってほぼ同じ場所に連続して構築されていることがあげられます。中には、まったく同じ場所にまったく同じプランの建物が建てられている場合もあり、上下に重なり合うような形で建物が続いています。こうしたケースでは、下層の建物が意図的に埋められ、それを土台としその上に新たに建物を構築されています(図4,5)。これらの建物の内部からは遺物がほとんど検出されないのが通常ですが、例外的に166号遺構の各部屋の中からは、完形の骨ヘラ、石斧、深鉢の破片ほぼ1個体分(図6)が見つかっており、これらは166号遺構が埋め戻されたときに意図的に埋納されたものと考えられます。遺構を埋めている土はピゼ壁に用いられたものと同種の土である一方、遺構の外側には灰色や黒色の灰層が積み重なって堆積しているケースが多く見られます。

1 期に帰属する166 号遺構は建物がほぼ完全な形で明らかになっており、内部が7 つの部屋に区画されていました(図7)。中央にL 字形をした通路状のスペースがあり、それを挟み両側にそれぞれ3つの部屋が並ぶ構造となっています。検出された部屋はいずれも小さく、居住用のスペースとするには十分ではないと考えられます。特筆すべきは、この建物内から合計7 体の人骨がほぼ同じレベルから検出されたことです(図8,9)。被葬者の詳しい年齢や性別などについては現在分析が進められていますが、いずれも乳児か幼児であることは間違いなく、中には頭骨変形が施されている例も見つかっています(図10)。いずれの場合も副葬品は伴っていませんでした。ほかにも2 基の建物から同じように乳児の埋葬が検出されており、屋内に乳児や幼児を埋葬することは広くおこなわれていたようです。これまで成人の埋葬がまったく検出されていないこととは、対照的な状況にあります。


図7 166号遺構


図8 166号遺構平面図と出土人骨

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図9 166号遺構内出土埋葬人骨


図10 頭骨変形が施された頭蓋骨

地上式の炉の多くは、ピゼ壁建物に比較的近い位置から検出されています。20 基近い例が確認されていますが、その規模や構造においてはかなり 定型化が進んでおり、多くは長軸の長さが2m ほどで、楕円形を呈しています(図11)。炉の基本的な構築方法としては、まず地面を浅く掘り窪めたところに拳大の礫が敷かれ(図12)、縁辺部にやや大型の礫が並べられています。礫の上に砂利混じりの粘土を貼って床面が作られ(図11)、さらにその周囲が粘土の壁で囲まれ、長軸上の一端には開口部が設けられています。確認されている粘土の壁は高さ10cm 程度のもので、周囲には灰の堆積が顕著に認められるものの、崩れた壁の痕跡は検出されていないため、オーブンのような上部構造は伴っていなかったものと思われます。床面の下に礫が敷かれているのは熱を保持するための工夫で、床面上で燃料を燃やした後、その余熱を利用して調理がおこなわれたと考えられます。

興味深いのは、ピゼ壁建物と同様この地上式の炉も同じ場所に何度も重ねて構築される例がみられることです。特に2 期の同一層に帰属する22 号遺構(図13)と64 号遺構では、隣接するピゼ壁の建物が継続して使用されている間に7 基もの炉が同一地点に構築されていたことが判明しています。それぞれの炉は特に大きな損傷を受けていないにもかかわらず、新たな炉がその上に築かれており、これは灰などの堆積によって周囲の生活面のレベルが徐々に高くなっていったことに対応した措置であったと考えられます。

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図11 22号遺構

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図12 22号遺構敷石

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図13 22号遺構実測図

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図14 144号遺構

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図15 225号遺構

ピゼ壁建物の間の屋外空間では100 基以上の半地下式の炉が検出されました(図14,15)。その構造はいたって単純で、地面を円形あるいは楕円形に10-20cm 程度掘りくぼめただけのものであり、大きさは直径30cm程度の小型のものから、長軸が140cm程の大型ものものまでさまざまです。形状や規模には違いがみられるものの、炉の壁が熱を受けて変色していること、中に灰や炭化物が厚く堆積していることは共通しており、さらに、熱を受けた拳大の礫が炉の内部からまとまって検出される例も少なくありません。そのことから、これらの半地下式の炉は、焼けた礫の熱を利用して調理をおこなうロースティング・ピッ トあるいは石蒸焼き炉と呼ばれる施設であったと考えることができます。炉が集中して多数構築されている区域では炉同士が切り合っている例も多く見られ、調理の都合に伴い頻繁に作り替えられたようです。

半地下式炉の覆土のウォーター・フローテーションにより採取した植物遺存体の中では、アッシュ、ポプラ、ヤナギなどの河川木が同定されており、おもにこれらの樹木が燃料として利用されたと考えられます。

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図16 31号遺構

遺跡の縁辺部にあたるサラット川に面した発掘区1Dと1Eでは、敷石状の遺構が1 期の層で4 面 ほど確認されています(図16)。河原の転礫を密に敷き詰めたもので、その中にはフリント製の石器や動物骨も混じっていました。敷石の面はほぼ水平になっていることから、整地面としての役割を担っ ていたものと考えられます。最も残りのよい最下層の敷石状遺構は、多少の起伏をもった自然堆積層(地山)の上面を水平に覆うような形で構築されていました。

3期の文化層は発掘区1Yの上層でのみ検出されました。この発掘区は現代の居住活動により新石器時代文化層の多くが攪乱を受けており、良好な状態で保存された遺構は検出されませんでした。


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