現代文明の基層としての古代西アジア文明
-文明の衝突論を克服するために-
領域代表:常木 晃
筑波大学人文社会系・教授
2012年度より5年間の計画で、科学研究費補助金 新学術領域研究(研究領域提案型)「現代文明の基層としての古代西アジア文明 -文明の衝突論を克服するために-」が開始されました。本学術領域研究は、古代西アジア文明が達成した歴史プロセスを、人文科学および自然科学を含む多様な研究手法で解きほぐし、西アジア文明を基盤とした深い相互理解に基づく新たな現代文明像の構築を目指します。
現代の西アジア地域の政治、経済、文化に関わる諸問題は、常に世界の不安定要素とみなされてきました。その背景には、文明の衝突といった政治的言説の中で西アジアのイスラーム社会が西洋社会への対立軸として位置づけられ、非西洋的な世界の象徴としてスケープゴート化されてきた事実があげられます。現代の国際政治にセンセーショナルな影響を与えたサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突 The Clash of Civilizations』(1996)の中では、世界の紛争は国家間の抗争から文明間の衝突へと変化し、やがて世界は行き詰ると分析しています。人々は人為的な国境や国旗に従うよりも、自己のアイデンティティが基づく文化や文明に結集するというもので、そのもっとも激しい対立軸が西欧対イスラームとされたのです。しかし、両世界の文化や文明の成り立ちを考えるとき、両者は果たして本当に対立的と言えるのでしょうか。
長年にわたってこの地域と接してきた本学術領域に関わる研究者の多くは、そのような風潮に大いなる違和感を抱いています。なぜならば、現在の西アジア社会の特質となっているものの多く、例えば強い血縁集団としての人々の紐帯や唯一神への深い信仰などは、イスラーム社会成立のはるか以前に古代西アジアの地で誕生したものである一方、それと同時に、現代の西欧社会の基盤を形作っているものとして、ムギ作農耕、都市社会、キリスト教といった、西アジアの地で生まれた生業や生活システム、精神活動が多くあげられるためです。古代西アジア文明を視点とすれば、西欧文明とイスラーム文明は同一の文明から出発した直近の兄弟なのであり、世界のその他の文明も従兄弟や又従兄弟に過ぎないのです。したがって、古代西アジア文明の研究は、現代世界の根幹を正しく理解し、相互理解を深化させていくための必須の項目に他なりません。
本学術領域研究では、古代西アジア地域を研究する多様な人材を組織し、若手研究者を巻き込みながら文理さまざまな分野の計画研究を同時に進行させ、西アジア文明学というべき新たな研究領域の構築を目指しています。西アジア地域は、現生人類の出アフリカや農耕の開始、冶金術の発明、都市の形成、文字の発明、領域国家の発達、一神教の成立など、人類史における大転換の舞台であり続けました。特に紀元前1万年から続く約1万年の間は、世界のフォアランナーとして世界史を牽引してきました。そのような歴史プロセスが、現代のあらゆる社会へと繋がる基層文化を作り上げたのですが、残念ながらこのような事実は現代社会において十分に理解されているとは言えません。そこで私たちは、現代の基層文化としての西アジア文明に目を向け、西アジア各地でのフィールドワークを通じて資料を収集し研究を積み上げ、その特筆すべき「先進性」と「普遍性」の根源を抽出することで、なぜ、そしてどのように西アジア文明が現代世界の基層となり得たのかを解明していきたいと考えています。ここでいう先進性とは、人類史上における様々なイベントや転換が世界に先駆けて生じたことを指し、普遍性とはそのイベントや転換がこの地域内で収束せずに世界的規模に拡散、展開したことを指します。
計画研究、公募研究では、現生人類の出アフリカ問題の新たなルートの追究から始め(計画研究1,4)、農耕牧畜技術の発明・展開(計画研究2,5)、冶金などの工芸技術の発展(計画研究3)、都市と文字の発達(計画研究6,8)、セム系言語の発達問題(計画研究7)、一神教の始まり(公募研究)まで、古代西アジアにおける人類史の最重要テーマに、それぞれ新たな視点から取り組みます。これらの研究では考古学、歴史学、言語学などの人文学が主体となりますが、これを背後から支えるのが、自然科学分野から参加する多様な計画研究群で、人間生活の背景となった自然環境の復元を目指して環境科学や分析化学を導入します(計画研究9-12)。アイソトープ、地質構造、地震、石材の微細構造といった様々な研究分野を有機的に結び付けることで、西アジアにおける人間社会の歴史と自然環境との関連を体系づけることが可能です。また、様々な研究成果を西アジア諸国に還元していく手段として、文化財の化学分析と保存を担う研究(計画研究13)も設けています。
5年間の研究期間にこれらの計画研究を深化させるとともに、これらの個別のテーマに共通してみられる、西アジア文明に特徴的な先進性と普遍性をもたらした要件は何かを明らかにしていきます。その結果、西アジア文明学という、日本ではまだ謳われたことのない新たな学術領域を創成することを目指しています。
基本戦略
本学術領域ではA01「人類史の転換点」、A02「史料から見た都市性の解明」、A03「古環境と人間社会」、A04 「文化遺産の保存」の4つの研究項目を設けています。
研究項目A01では、西アジアにおける現生人類の登場から初期の都市が形成されるまでの、ヒトの拡散、石器石材調達、農耕開始、牧畜の展開、冶金術の発達といったイベント・転換を人類史上の一連の大革新と捉え、それぞれのプロセスをフィールドワークで得た一次資料に基づいて実証的に解明していきます。これらの実証的テーマとして、ヒトの拡散については南イランでの現生人類拡散ルートに関する新仮説の検証、石器石材調達については地質調査による供給地とそのルート変化の解明、農耕開始については形態とDNAに基づくコムギの栽培進化プロセスの解明、牧畜の展開では動物考古学的手法に同位体、DNA分析を融合させた手法による動物飼養プロセスの解明、冶金術についてはパイロテクノロジーの視点による考古遺物の整理分析といった研究を担っていきます。
研究項目A02では、西アジアにおいて都市が形成され国家が発展していく中で様々に表出した都市性に焦点を絞り、文字通り楔形文書を読み解いていくことで、この新しい生活様式をもたらしたものは何かについて具体的に追究します。A01と同様に一次史料に基づいた実証的テーマが準備されます。紀元前二千年紀のハブル川中流域の小国家の実態、エマル王国などユーフラテス川中流域をはじめとする周辺アッカド語文書にみる政治と宗教、バビロニアやアッシリアの国家運営にあたっての祭儀の役割などが個別テーマとなります。
研究項目A03では、主としてA01の各研究班と連携し資料の自然科学的分析を実施するとともに、フィールド調査や遺跡調査を実施し、西アジアの自然環境史の構築を図ります。主な分析調査実施項目は、人骨・動物骨などの多元素同位体比分析、石器・土器などの走査型電子顕微鏡・エネルギー分散型X線分析、地層・遺跡探査のための地中レーダー・帯磁率異方性測定などです。
研究項目A04は他の研究項目と連携しつつ、西アジア諸国での文化財保存状況の調査研究と文化財保存事業への貢献を模索していきます。文化財保存のための調査として、蛍光X線分析などを用いた非破壊元素分析、ELISA法など抗原抗体反応分析やGC/MS分析などを実施し、文化財保存のための新たな分析法の開発も行います。
総括班の役割
これらの各計画研究どうしが研究成果を最も有効に生かせるように、総括班が中心となって、研究会やシンポジウム、大学院生教育プログラムなどを開催し、日常的に共同研究を進めていきます。領域代表者の下、12人の計画研究代表者が、事務局、総務、研究会、シンポジウム、教育プログラム、広報という6つの役割をそれぞれ分担し任に当たります。
総括班の構成
全体統括: 常木 晃 (西アジア考古学)
事 務 局: 三宅 裕 (西アジア考古学)
事 務 局: 谷口 陽子 (考古科学、保存科学)
総 務: 山田 重郎 (古代西アジア史)
総 務: 久田 健一郎 (地層学)
研 究 会: 本郷 一美 (動物考古学)
研 究 会: 丸岡 照之 (同位体地球化学)
シンポジウム: 丹野 研一 (考古植物学)
シンポジウム: 八木 勇治 (地震学)
教育プログラム: 池田 潤 (セム語学)
教育プログラム: 安間 了 (地質学)
広 報: 柴田 大輔 (古代メソポタミア史)
広 報: 黒澤 正紀 (鉱物学)