計画研究2(A01)

 

 

古代の主食糧としての コムギ栽培進化プロセスの解明

 

 

丹野 研一

Ken-ichi Tanno
山口大学農学部・助教

研 究 概 要

エンマーコムギ

 西アジア文明の研究のためには、植物を調べることも重要です。とくに西アジアは、世界で最古の農耕がはじまった地域です。農耕開始は人類史のなかのもっとも重要なイベントのひとつですので、その具体像を解明することを長期的な研究の大目標としています。本領域研究では、農耕の開始によってどのように先史時代の人々の食が変化していったのかを、西アジア広域の遺跡における植物調査から明らかにしてゆきます。また、とくに農耕開始以降の主食糧ともいえるエンマーコムギやアインコルンコムギなどのコムギ類にスポットをあてて、栽培試験やゲノム解析などさまざまな角度からデータ収集を行います。
 西アジアでは農耕が約1万年前にうまれました。シリア北東部からトルコ東南部にかけてのユーフラテス川流域付近が、これまでに明らかになってきた農耕起源の最有力地です。「本当にこの地域が、農耕起源地なのだろうか」と疑うことから私たちの研究ははじまっています。というのも、ユーフラテス川流域はシリアとトルコの国策でダム建設がさかんに行われました。そのため発掘調査が周辺地域よりもすすみ、結果として最古級の農耕集落が多数みつかったわけです(写真1)。私たちの研究では周辺地域の調査をもふくめた研究をして、農耕起源地というものを特定してゆこうと考えています。

写真1: 遺跡から出土した8000年前の炭化コムギ

 植物調査をする遺跡は、農耕がはじまる前の旧石器時代(数万年前)から都市文明時代(紀元前3000~1000年ごろ)にかけての10余の遺跡であり、地域はシリア、トルコを中心として東はイランから北はアゼルバイジャンという広大な地域にかけての出土植物を調査します。これほどの規模の研究は他に類例がありません。研究の手法としては、発掘調査によって遺跡から出土した植物化石を顕微鏡で同定してゆく考古植物学という手法と、エンマーコムギなどを実際に栽培したり製粉加工などをすることで特性を調べてゆく栽培学・実験考古学的な手法(写真2)、さらに最新のパンコムギであきらかにされている分子遺伝学的な情報をコムギ類に援用するゲノム科学的な手法を本計画研究では扱います。人類初の農耕がどのように進行していったのか、人々の食生活は各地でどのように変化していったのかを明らかにしてゆきたいと考えています。

 西アジアで育まれた農耕牧畜は、ムギ類・マメ類・果樹・牧畜をセットにした農業スタイルですが、このスタイルはその後、世界中の温帯地方に伝わりました。このなかでもとりわけムギ栽培は、西アジア文明の発展におおきな役割をはたしただけでなく、現代にまで発展的に受け継がれ、パンコムギが世界第一位生産量の穀物として君臨するなど現代農業の基幹となっています。ムギ作農業スタイルは最古の農業スタイルでありながら、現在でも最先端をすすんでいるわけです。

写真2: Aの対照区では世界各地で採取されたエンマーコムギを育て、Bでは同じ系統を湛水処理して湿害程度の差を調べました。シリアの農民から「春の伸長期(節間伸長期)に豪雨が来るとマカロニコムギ(つまりエンマーコムギの進化したタイプ)はなんとか生き残るけれど、パンコムギは全滅してしまう」という話を聞きました。コムギ類が栽培化されたのは半乾燥地なので水分不足による乾燥害がふつう注目されますが、西アジアの畑はじつは排水不良地が多いので、コムギ遺伝資源と湿害常襲地および栽培起源地の関係を調べようと栽培試験を行ってみました。この研究は栽培起源の解明に貢献すると考えているわけですが、それだけでなくマカロニコムギの品種改良および近縁種であるパンコムギ改良にも役立つ「一石三鳥」をねらっています。


写真 3 挽き割りコムギの料理(シリア)

 

 このように世界農業の基幹ともなったムギ農耕ですが、その原初のすがた、すなわち約1万年前にどのような農耕がおこなわれていたのかについてはまだ不明な点が多いのです。たとえばコムギの仲間を利用していたことは遺跡からエンマーコムギやアインコルンコムギがよく出土することから明らかなのですが、それをどうやって加工して食べていたのかについては、まったく想像の域をこえていません。ようやく5000年前頃からの古代メソポタミア文明や古代エジプト文明の時期になって粘土板文書や壁画、またとくにエジプト王朝では粉挽きをしている塑像が出土するようになり、製粉をしてパンとよべるものが作られていたことがわかります。非常に古い時代では約2万年前のイスラエルで野生のイネ科植物をすりつぶしていたと判定されたすり石がみつかっていますが、はたしてその分析根拠となったデンプン粒が当時のものなのか疑問が残りますし、仮にこれが正しかったとしてもこれらの時代をつなぐ証拠資料がほとんどないのです。土器もまだ存在していなかった約1万年前の農耕開始期、すなわちコムギ類が大量に出土するようになった時期に、どのような食事がされていたのかわからないのが現状です(写真3)。パンとよべるものが作られていた可能性はあるのでしょうか、ないのでしょうか。当時の食事をズバリ言い当てることは本プロジェクトの期間では難しいのですが、私たちの研究ではこのような先史時代の「食」ついて、これまで得られていない証拠を少しでも多く集めたいと考えています。
 本計画研究では、考古遺跡から掘りだされた食用植物について詳細な同定調査を行い、また主食糧といえる植物の現生野生種と現生栽培種について、DNA分析(分子進化)研究と栽培試験研究を行います。これらによって古代西アジアの食生活の実像をあきらかにしてゆき、農耕開始という人類史のターニングポイントをこれまで以上に理解しようというのが本研究のねらいです。


 

研究代表者: 丹野 研一 (山口大学・考古植物学・総括と全般)
研究分担者: 河原 太八 (京都大学・栽培植物起原学・栽培試験とDNA 分析)
研究分担者: 山根 京子 (岐阜大学・植物遺伝育種学・DNA 分析)