古代西アジアの文字文化と社会
-前2千年紀におけるユーフラテス中流域とハブル流域-
研 究 概 要
人類最古の文字文明が栄えた古代メソポタミア世界の研究は、19世紀以来、メソポタミア中・南部に位置する諸遺跡の調査を中心に進展してきました。そうしたなか、ユーフラテス川中流域とハブル川の流域は、メソポタミアとシリアを結ぶ回廊として歴史的に重要な役割を果たしたことが知られてきたものの、メソポタミア文明地域の辺境と見なされ、1970年代までは、ほとんど注目されることはありませんでした。しかし、1970年代以降ユーフラテス中流域ならびにハブル流域に点在する大型遺跡の発掘調査が進み、それらの遺跡から楔形文字史料が多数発見された結果、前2千年紀の同地域についての詳細が急速に明らかになって来ました。特にユーフラテス中流域のテル・メスケネ(古代名エマル)、テル・アシャラ(テルカ)、ヒルベト・エ・デニエ(ハラドゥム)、ハブル川上流域に位置するテル・レイラン(シュバト・エンリル)、テル・フエラ(ハルベ)、また同下流域に位置するテル・タバン(タバトゥム/タベトゥ)、テル・シェイク・ハマド(ドゥル・カトリンム)などからそれぞれ百点を超える前2千年紀の粘土板文書が発見され、当該地域の重要性が認知されるようになりました。
1997-2010年にテル・タバン遺跡で実施された国士舘大学による発掘調査では、わが国の発掘隊としてはじめて500点を超える楔形文字文書史料が発見され、ドイツと日本の研究者が、これらの文書を解読・研究・出版してきました。テル・タバン遺跡出土文字資料は、主として(1)前18世紀後半の粘土板文書(行政文書、書簡、学校文書)(約30点)、(2)前13世紀後半から前12世紀前半の粘土板文書(行政文書、書簡、宗教文書)(約250点)、(3)前12世紀前半から前11世紀前半の粘土製円筒、釘、レンガに刻まれた建築記念碑文(約300点)からなり、これらの文書の研究により、テル・タバン遺跡がメソポタミア各地で出土する楔形文字文書史料に頻繁に言及される古代都市タバトゥム/タベトゥであることが証明され、前2千年紀のさまざまな時期におけるこの都市をめぐる歴史と文化が明らかになってきました。すなわち、前2千年紀前半、同市は、南方のユーフラテス中流域に位置するマリ市やテルカ市を拠点とする王国の政治的・文化的影響下にありましたが、前2千年紀後半には、東方のティグリス中流域を拠点とする大国アッシリアの影響下に置かれながらも、「マリの地の王」を名乗る地方王朝が同市を中心とする独立した行政圏を維持していた、といった実態がしだいに明らかになってきたのです。
こうして前2千年紀の様々な時期と場所(都市)に由来する多くの新たな文書史料が現れるなか、多様な史料のもたらすデータを包括的に視野に収めることが急務となってきました。こうした努力は他に先駆けてドイツとフランスの研究者の間で行われ、特定のテーマ(前2千年紀の上部メソポタミアの歴史地理)について複数の共同研究会を持ち、その結果を公表しています(E. Cancik-Kirschbaum – N. Ziegler eds., Entre le fleures, I, Gladbeck, 2009)。この成功に倣い、テル・タバン文書研究に携わる日本の研究グループもフランスの研究者との間で当該期のハブル川流域の歴史地理をテーマに2009年から2010年までの2年間にパリと筑波で計4回の研究会を持ち、その成果をRevue d’assyriologie et d’archéologie orientale 誌52巻(2011)特別号として出版しました。こうした共同研究は、個別の遺跡ごとに研究が細分化しやすい状況を克服し、興味深い研究成果をもたらしましたが、一方で歴史地理という課題にとどまらず、より広い視野に立った共同研究や情報交換が必要であることもはっきりしてきました。
そこで、本計画研究は、政治史や歴史地理にとどまらず、書記伝統、暦法、宗教祭儀、行政・社会制度、農業・工業生産と物流など楔形文字文書史料が情報を提供し得る複数のテーマを取り上げて、域内での各地、各時代の相互関係を包括的に捉えるための国際的な共同研究を目的としています。具体的には、(1)日本の研究グループが従事するテル・タバン文書の解読作業の進展に上乗せして、上述の様々なテーマについての研究を進めながら、(2)平成24年度の1年間の準備期間をへて、平成25年度から平成27年度まで3年間にわたり、当該地域の様々な遺跡から出土する楔形文字文書を研究している欧米の研究者を筑波大学に招聘し、以下のテーマで研究会を行います:第1回「書記教育と書記伝統」; 第2回「暦法と祭儀」; 第3回「行政・社会制度と産業・物流」。
本研究計画班では、これらの研究会の成果を逐次、筑波大学西アジア文明研究センターのホームページに発表したうえで、最終年度の平成28年度には、欧文のモノグラフとして出版します。同時に、人類史における文字文化の嚆矢とも言うべき古代西アジアの楔形文字粘土板文明の一端を、特に書記教育・伝統、暦法に関して本研究領域のあつかう内容に触れながら、平易に解説する機会を作り、一般向けの日本語の冊子を刊行する予定です。
研究代表者: 山田 重郎 (筑波大学・文献学的研究と統括)
連携研究者: 中田 一郎 (古代オリエント博物館・文献学的研究[前2千年紀前半])
連携研究者: 渡辺 千香子 (大阪学院大学・環境学的研究)
研究協力者: Nele Ziegler (フランス、CNRS・文献学的研究[前2千年紀前半])
研究協力者: Stefan M. Maul (ハイデルベルク大学・文献学的研究[前2千年紀後半])