周辺アッカド語文書に見る古代西アジアの言語・歴史・
宗教に関する総合的研究
研 究 概 要
アッカド語は、紀元前2千年紀後半の古代西アジア全域において、今日の英語に匹敵するグローバルな外交・通商の媒介言語として使用された言語です。このうち、メソポタミアから見た周辺地域(シリア、東地中海沿岸、小アジア、エジプトなど)で使用されたアッカド語を周辺アッカド語と呼びます。周辺アッカド語は、周辺地域とメソポタミア、あるいは周辺地域間の通信手段として用いられたほか、ローカルな行政経済活動を記録する文章語としても使用された言語です。そのため、周辺アッカド語で書かれた文書を読み解くことにより、私たちは紀元前2千年紀後半の古代西アジア周縁の言語・歴史・宗教に関してさまざまな事柄を知ることができます。
なかでも、1970年代の発掘でフランス隊がメスケネ (古代のエマル、写真1)で発見した粘土板(以下、エマル文書と呼ぶ)は最も新しい周辺アッカド語資料のひとつとして、また歴史的・宗教的に興味深い内容の文書として1980年代以降大きな注目を集め、欧米・イスラエル・日本を中心に世界中で盛んに研究されています。わが国では、欧米・イスラエルの研究者と連携を取りつつ、研究代表者の池田がエマル文書の主に言語的側面について、研究分担者の山田が主に歴史的側面について、連携研究者の月本が主に宗教的側面について研究してきました。
過去30年の間にエマル文書に関する研究は目覚ましく進展し、紀元前13-12世紀のユーフラテス中流域を中心とする古代西アジアの言語・歴史・宗教に関して多くのことが明らかとなりました。今回は、言語についてその一端を示します。
エマルでは住民の多くが西セム語(図1参照)を話し、一握りの書記がアッカド語(図1参照)を書くという二言語使い分けが存在しました。この状況を専門用語で「ダイグロシア」と呼びます(ダイは「2つ」、グロスは「言語」を表します)。ダイグロシアは実は私たちにとっては身近な言語状況です。日本はかつて大陸から漢字を受容しましたが、その際、当初は漢字を使って中国語(漢文)を書きました。つまり、日本語を話す人たちが文章を書くときには中国語を書くという二言語使い分けをおこなっていたことになります。その後、日本人の書く漢文は歴史的にも地理的にも多様な中国語の特徴を取り入れつつ、日本語風にアレンジされた和化漢文となり、やがては漢文の訓読が始まります。
エマルの書記は(漢文を書いた日本人が中国語を母語としていなかったように)アッカド語を母語としていなかったため、学校で学んだり、職業的に読み書きしたアッカド語の各種方言から歴史的にも地理的にも多様なことばの特徴を取り入れつつ、文法を単純化したり、独自の語法を発達させるなどして(和化漢文のような)周辺アッカド語の一方言を形成していました。さらに、この方言には捺印方法、字体、表記、言語的特徴において明瞭に異なる2つの書記伝統(シリア型、シリア・ヒッタイト型)も存在しました。
最近になって、周辺アッカド語が言語ではなく「アログロットグラフィー」であるという説が出てきました。米国のある研究者が2006年に発表した論文の中でアマルナ文書のことばがアログロットグラフィーであるという説を唱え、その後、この主張を周辺アッカド語全般に当てはめています。アログロットグラフィーというのは文字として書かれた言語と実際に読み上げる際の言語が異なる現象を指します。これは、文字上は漢文で書かれた文章を日本語として読みあげる漢文訓読と似通った現象だと言えます。言い換えるなら、表面的にアッカド語で書かれた文章を周辺アッカド語の書記は自分の母語(西セム語など)として訓読していたというのが、彼女の主張です。
しかし、そもそも古代の日本において漢文の訓読は厳密な意味でのアログロットグラフィーだったのでしょうか。日本語における漢文訓読に対する理解を深めることによって周辺アッカド語と楔形文字の本質に迫ること、それが計画研究7(A02班)の目的のひとつです。
研究代表者: 池田 潤 (筑波大学・セム語学・総括、言語学的分析)
研究分担者: 山田 雅道 (中央大学・西アジア文献学・歴史学的分析)
連携研究者: 月本 昭男 (立教大学・聖書学・宗教学的分析)
連携研究者: 永井 正勝 (筑波大学・エジプト学、文字学・文字学的分析)