文部科学省

日本学術振興会


研究成果


計画研究13 (A04): 「西アジア文化遺産の材質と保存状態に関する自然科学的な研究」 (研究代表者: 谷口陽子)によって実施した研究発表が、CIPA International 25th Symposium 2015 (Taipei): Recording, Documentation and Cooperation for Cultural HeritageにおいてBest Poster Paper Awardを受賞しました。


ポスター発表: 
「Methodology of high-resolution photography for mural condition database」
R. Higuchi, T. Suzuki, M. Shibata, and Y. Taniguchi (樋口諒:東京工業大学、鈴木環:国士舘大学、柴田みな:東京文化財研究所、谷口陽子:筑波大学)

proceedingのリンク

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計画研究13 (A04): 「西アジア文化遺産の材質と保存状態に関する自然科学的な研究」 (研究代表者: 谷口陽子)によって実施した古代青色ビーズの研究発表が、2012年度X線分析討論会学生奨励賞を受賞しました。


ポスター発表: 
「シリアで発掘された古代青色ビーズに対するX線分析」
北原 圭祐 (千葉大学)・沼子 千弥 (千葉大学)・谷口 陽子 (筑波大学)

発表ポスターPDFダウンロード(1.57MB)

 


計画研究1 (A01):「西アジアにおける現生人類の拡散ルート -新仮説の検証-」(研究代表者: 常木晃)・13(A04):「西アジア文化遺産の材質と保存状態に関する自然科学的な研究」 (研究代表者: 谷口陽子)。

過激派組織ISによるイラク・モスル博物館の収蔵資料の破壊について

 西アジア文明研究センターは、人類史を明らかにするうえで極めて重要な文化財の宝庫である西アジア地域を対象に、遺跡や遺物、文献史料、自然環境、文化遺産の保護などの研究を行っています。ご存知のように、2014年夏ごろから、西アジアの多くの遺跡や博物館が過激派によるテロや破壊の対象となる事件が急増していますが、アフリカやアジアの文化遺産もまた破壊予告を受けており、今後の文化遺産の保全についてまったく予断を許さない状況です。2015年冬には、イラクのモスル博物館、ニネヴェ遺跡、ハトラ遺跡などが打ち壊されたり、爆破されたりする野蛮な映像が公開され、世界中に大きな衝撃を与えました。
 西アジア文明研究センターでは、イラク・クルディスタン自治区のスレイマニアにおいて遺跡発掘などの調査活動を行っています。幸いにも、スレイマニア県は過激派組織による影響が少ないため、イラク第三の博物館であるスレイマニア博物館も現在のところ被害はありません。スレイマニア博物館には、ハトラ遺跡の石像群などバグダード博物館から分与された収蔵品があり、過激派の破壊をまぬがれた貴重な証人となっています。
 2015年3月の現地調査の際に、スレイマニア博物館やスレイマニア大学の収蔵品保存の専門家であるオスマン・タフィーク氏から、モスル博物館の破壊の状況と収蔵品の文化的価値について、きちんとイラク人にも伝えたいとの要望を受け、当センターが微力ながらお手伝いをすることになりました。アメリカのコロンビア大学の博士課程の学生であるクリストファー・ジョーンズ氏が作成した英文ウェブサイトの記事「Assessing the Damage at the Mosul Museum」を基に、クルド語、アラビア語、日本語に翻訳し、公開することにしました。クルド語はオスマン・タフィーク氏(スレイマニア大学講師)、アラビア語はサーリ・ジャンモさん(筑波大学大学院人文社会科学研究科歴史人類学専攻博士課程)、日本語は牧野真理子さん(筑波大学大学院人文社会科学研究科国際地域研究専攻修士課程)、山田重郎氏(筑波大学人文社会系教授)に翻訳・解説をいただきました。ご協力に感謝いたします。また、ウェブサイトの使用許可や相互リンクの許可を快諾してくださいましたジョーンズ氏に御礼申し上げます。(常木晃・谷口陽子)

オリジナルの原文ウェブサイト「Assessing the Damage at the Mosul Museum」はこちら

クルド語版はこちらからダウンロードしてください。(Kurdish Version: Downloard 6.9MB)

アラビア語はこちらからダウンロードしてください。(Arabic Version: Downloard 4.9MB)

 

モスル博物館の損害の評価.第1部:アッシリアの遺物

2015年2月27日

 昨日、ISISは新たなプロパガンダ・ビデオを発表した。昨年の夏のモスル陥落以来、憂慮されていた事態を見せつけるものであった。: モスル博物館の考古遺物の破壊である。これまでに世界中がこの映像を目にし、世界の主要な報道機関で大々的に取り扱われた。この記事ならびにその続編で、何が失われたのかを確認し、その損害を評価する。
 ISISの過去のビデオのいくつかで、一派のスポークスマンが映像に登場し、その破壊行為の正当性を説明した。International Business Timesが、翻訳を提供している。

私の背後にあるこれらの遺跡は、過去の人々が、アッラーをよそに崇めた偶像と彫像である。いわゆるアッシリア人とアッカド人、そしてその他の者は、神々に、戦争、耕作、天水を頼っており、彼等に犠牲を捧げた・・・預言者ムハンマドはメッカに訪れた際に、素手で偶像を取り壊した。我々は預言者によって、偶像を取り壊し、破壊することを命じられており、預言者の教友は彼等が国々を制圧した際、同様のことを行った。

 これに続いてビデオは、ISISの戦闘員達が像を倒し、スレッジハンマーで粉々にし、ジャックハンマーを使用して、いくつかの彫像の顔をたたきつぶす様子のモンタージュを写している。
 破壊された遺物の大半は、2つに分類できる。: モスル南部の砂漠の中に位置する都市ハトラから出土したローマ時代の彫像、そしてニネヴェとその周辺のホルサバードやバラワトといった遺跡から出土したアッシリアの遺物である。この記事では、アッシリアの遺物に焦点をあて、続編の記事では、ハトラの遺物について論じる。

 これに続いてビデオは、ISISの戦闘員達が像を倒し、スレッジハンマーで粉々にし、ジャックハンマーを使用して、いくつかの彫像の顔をたたきつぶす様子のモンタージュを写している。
 破壊された遺物の大半は、2つに分類できる。: モスル南部の砂漠の中に位置する都市ハトラから出土したローマ時代の彫像、そしてニネヴェとその周辺のホルサバードやバラワトといった遺跡から出土したアッシリアの遺物である。この記事では、アッシリアの遺物に焦点をあて、続編の記事では、ハトラの遺物について論じる。

ネルガル門

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ナレーターのいるシーンは、ネルガル門の前で撮影されている。ネルガル門は、ニネヴェの北側の門の一つである。門の入り口には、アッカド語でラマッスとして知られる大きな翼を有した人面の雄牛が立ち並ぶ。ネルガル門とラマッスは1849年にオーステン・ヘンリ・レヤード卿によって発掘されたが、そのときに埋め戻されていた。左のラマッス(ISISのナレーターの後ろに見える)、は1892年以前に再発掘され、地元の男性がオスマン帝国の官僚に代金を支払って、像の上半分を切り取り、石灰を取り出すために火の中で破壊した。

 右のラマッスは、1941年まで埋まったままであったが、その年、門の周りの土壌を激しい雨が浸食し、2つの像が姿を現した。その後、ラマッスの周りの門が復元され、以来ラマッスは展示されていた。
門は、センナケリブがニネヴェを拡大、再建した704年から690年の期間中に建設された。

 ビデオは2: 26で止まり「この門は疫病と地下世界の神であるネルガルに関係している」とする表示を強調している。すでに上半分が欠けた左のラマッスは、標的にされなかったようだ。右のラマッスはジャックハンマーで顔を削りとられ、修繕が難しいほどの損害を被ったようだ。

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ここに比較のため、破壊前のネルガル門の写真を示す。復元された門そのものが破壊されたことを示す証拠はない。ここに門の場所を示すニネヴェの地図がある。

 門の内側には、もう2体のラマッスがあるが、門の外のラマッスより残存状態が悪いものだった。両方とも激しく割れ、左側の一つは顔の鼻より上の部分がなく、右のものは頭以外、すべてが欠けている。
左のラマッスはスレッジハンマーによって壊され、複数の大きな塊に分解された。右のラマッスの頭はジャックハンマーで壊された。

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2009年時のネルガル門の内側(Source)

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バラワトの門扉

 ビデオは、バラワト(現在のカロコシュの近く)の青銅製の門扉の一部をしばらく写している。3つのそのような門扉が発掘されており、そのうち2つは1878年にホルムズド・ラッサムによって発掘され、現在は大英博物館にある。そしてもう一つは、1956年にマックス・マロワンに発掘されたもので、モスル博物館に展示されていた。ラッサムの門扉は、アッシュル・ナツィルパル二世 (治世:前883-859 )とシャルマネセル3世 (治世: 前859-824)の治世に建設された。マロワンの門もまたアッシュル・ナツィルパル二世(治世: 前883-859)時代のものである。

 青銅製の装飾帯が複数の材木を両側の扉としてまとめ、支柱に固定していた。青銅の帯は、アッシリアの軍事遠征の場面で豪華に装飾されている。

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ISISの映像の0:55のところでも、バラワトの門扉が展示されていることが示している。

 2003年のアメリカの侵攻の余波の中、アメリカ軍がモスルを制圧する前に30のパネルがモスル博物館の門から、略奪された。略奪されてしまったピースがかつてあった場所は、上の写真に確認できる。
ビデオには、門が破壊あるいは破損されたことを示す場面はない。青銅帯の断片は、持ち運びができるものなので、古物のブラックマーケットで売られている可能性もある。断片が現れた際に、判別できるよう、大英博物館にあるバラワト門の写真を参考のため以下に付け加える。


木製のドアに青銅帯が据え付けられたバラワト門がどのように見えるかを示す復元。大英博物館所蔵。筆者撮影。


大英博物館所蔵のバラワトの門扉にみられる典型的シーン。上段は、戦車による攻撃を表し、下段は王による貢ぎ物の受領を表す。筆者撮影。

その他のラマッス


 ビデオの1:10のところで、もう2体のラマッスが見られる。それらは、雄牛ではなく、ライオンの体をした初期のタイプのものである。それらが破壊される場面はビデオにないが、ビデオの最後では、博物館にあるすべての大型の彫像が破壊されたように見えるので、それらのラマッスが無事である可能性は低い。

レリーフの彫像

 1:19のところで、ドゥル・シャルキン(現代のホルサバード)からきたものだと表示された部分的に復元されたレリーフが見られる。その都市は、前716年以降のある時にサルゴン二世によって建設され、705年の彼の死の際に放棄された。この種のレリーフでは、大抵王と謁見する貢納者を描いているが、このレリーフの場合は、嘆願者の一人が要塞の模型を持っている。


モスル博物館のドゥル・シャルキン(ホルサバード)のレリーフ, ISIS映像の1:19。

更新:ここに、モスル博物館のレリーフのより良質の写真(読者のHUBERT DEBASCH氏の提供)がある。かなりの部分は復元のようだが、本物のホルサバードのレリーフである。


モスル博物館のドゥル・シャルキン(ホルサバード)のレリーフ, 写真(c) Hubert Debbasch。

 類似したシーンは、例えば、シカゴ大学東洋学研究所など他の博物館所蔵のホルサバードのレリーフにも見られる。


シカゴ大学東洋学研究所のドゥル・シャルキンのレリーフ, 類似する場面。筆者撮影。

 モスル博物館の別の浮き彫り(ビデオの1:26)は男神と女神の前で跪く王を描いている。類似した場面は、ハンムラビ法典碑等の近東の芸術に見られる。


更新: Paolo Brusasco教授は、上の画像は、イラク・クルディスタン地域のドホークに近い、崖に刻まれている「マルタイ磨崖レリーフ」のコピーであると指摘している。そこには、センナケリブがアッシュル、ニンニル、シン、アヌ、シャマシュ、アダド、イシュタルといった神々を礼拝している場面が描かれている。


ドホーク近郊の「マルタイ磨崖レリーフ」。センナケリブがアッシリアの神々を礼拝している。(Source)

 1:28のところで、他の戦士がはしごを登って要塞の壁を攻撃する一方、一人の兵士が死亡した敵の頭を数えている包囲攻撃の場面を描いている。


 色調とレリーフの細部の双方においてやや不鮮明なように見える。当初は、どこかに保存されている遺物をプラスターで鋳型取りしたものと考えていたが、オリジナルは見つかっていない。これは間違いなく前9-10世紀の典型的な初期の様式である。レプリカかもしれない。
 1:42のところで映される別のレリーフは、アッシュルバニパルの有名なライオン狩のレリーフで、死にゆくライオンを描いている。
これは明らかに大英博物館所蔵のレリーフに基づき作成されたレプリカである。


モスル博物館のライオン狩のレリーフ。ビデオの1:42。


大英博物館のライオン狩のレリーフ。筆者撮影。

 現在、大英博物館は、プレスリリースを発表し、その中で 「我々はこの映像に映し出されている遺物のいずれも大英博物館にあるオリジナルのコピーではないと断定できる」と述べている。しかしながら、上記の比較からわかるように、そうではなく、少なくとも一つは、大英博物館のオリジナルから直接鋳造されたか、もしくは、おそらくレプリカとして作られたものがある。

 これは、大英博物館に所蔵されているニムルドのレリーフの右半分のレプリカである。


ニムルドのティグラト・ピレセル三世の中央宮殿のレリーフ、大英博物館所蔵の写真。

 したがって、映像の中で映し出されるアッシリアのレリーフの多くは、本物ではないといって差し支えないと考えている。

サルゴンの像(?)

 1:44で、博物館の表示によってアッシリアのサルゴン二世の像とされる像が倒されて破壊されている様子を映し出す。

 像の破壊された部分から、明らかにプラスターで作られていることがわかる。像の形と、衣服の襞のパターンは、大英博物館のアッシュル・ナツィルパル二世の像に類似している。しかしながら、上の画像の中の帽子は、表示が示すようなサルゴン二世像のコピーではないことを示しており、顎ひげのリングレットは、むしろ以下の大英博物館の彫像に合致する。


大英博物館のラマッスの様式の頭部。筆者撮影。

 この像は、オリジナルをもとにして作成された復元かもしれない。類似する、ナブー神の像がドゥル・シャルキンで発見されているが、これはサルゴン二世の像ではなく、単に彼の治世に作られた像である。


ドゥル・シャルキンのナブー神殿の像。シカゴ大学東洋学研究所。筆者撮影。

結論

 2003年に、より良い状態で保存するためにモスル博物館から約1,500点の小型の遺物がバグダッドのイラク博物館に移動させられたことに注意すべきである。とはいえ、多くの像や、移動するには大きすぎるものや、壊れやすいものは残されていた。
 アッシリアの遺物に関して言えば、最も大きな損失は、ネルガル門のラマッスである。そのうちの一つは、非常に良く保存されていたものであった。それらは、古代のアッシリアにおいて訪問者を迎えていたように、ニネヴェで訪問者を迎える本来の場所に残されていた数少ないラマッスの一部であった。
 博物館内部の展示品に関して言えば、何点かは他の場所で保管されているオリジナルのレプリカであったが、その他のものは、本物のように思われる。
 ハトラの彫像の破壊は、さらにひどい状態であるように思われる。この損害に関しては、すぐにもう一つの記事を示したい。

参考文献:
[1] J.P.G. Finch, “The Winged Bulls at the Nergal Gate of Nineveh,” Iraq 10, No. 1 (Spring 1948): 9-18.

モスル博物館の損害の評価. 第2部: ハトラの彫像

2015年3月3日

 金曜日に、私はこの記事の前篇を載せてモスル博物館のアッシリアの収蔵品ならびにネルガル門のラマッスの損害を評価した。この記事は、第二の主要な遺物群への損害について評価する。:ローマ時代の都市ハトラの彫像である。
ハトラは、モスルの南の砂漠に位置する豊かな交易都市で、パルティアとローマ帝国の間の地域で栄えたいくつかの都市の一つであった。ハトラ、パルミラ、ペトラ、ドゥラ・エウロポスは、東西の交通を中継する交易基地として繁栄した。それらの都市は、いずれもローマあるいはパルティアの属国であり、ハトラはパルティアの属国であった。
このためにハトラはローマの標的となり、トラヤヌスは後114年のメソポタミアへの軍事行動の際にハトラの都市を包囲したが、攻略には至らなかった。セプティミウス・セヴェルス帝は、198年のパルティア侵攻の際に、ハトラへ数回猛攻をしかけたが、これもまた失敗に終わった。暑さ、気付かれずに市壁に接近することが困難である開けた台地、そしてハトラ周辺は水や食糧が乏しいことが、ハトラを包囲からの攻撃から無事に保った。ハトラは240年に滅ぼされたが、ローマではなく、サーサーン朝のシャープール1世の軍勢によって、サーサーン朝とローマ帝国との戦いの間に取り残されたパルティアの最後の属国に対する軍事遠征の中で滅ぼされた。


ローマとパルティアの対決(c. 2000AD), ローマの属州は赤でローマの属国はピンク。パルティアの領域は茶色で、パルティアの属国はオレンジ。

 東と西の間という特異な立地のため、ハトラはパルティアにおいては独特な、芸術の流露を生んだ。東と西からの影響が混じり合って、非常に自然主義的でありつつ、明らかに東洋的な芸術様式を創りだした。ここでは、ゴルゴンの頭が近東の神々の神殿に、アラム語の銘文と共に飾られた。シャマシュやネルガルといったメソポタミアの神々は、ヘラクレスのようなギリシャ・ローマの神々と並んで描かれた。古典的な裸体とパルティアの華美な衣服で飾り立てられた像が並んで存在した。ローマの太陽神であるアポロンの像の一つには、衣服に近東の太陽神であるシャマシュを特徴づけるシンボルさえ見られる。

ISISによりハトラの芸術的な遺産が被った損害は壊滅的なものだった。ハトラの像がまだ研究途上であったという事実も、この悲劇に輪をかけている。それらのほとんどは20世紀に発掘され、出土品は一度もイラクを出ることはなかった。出土品の主要な出版物はアラビア語の書籍で、しばしば欧米では利用できなかった。イラク国外では僅かな研究者しか、像を研究する機会を得ることができなかった。

ハトラの王の像

 ビデオの最初(0:08)で、3人の人物が、2つの像をスレッジハンマーで殴っているところを写しているが、あまりダメージを与えることには成功していない。彼らは、像を引きずり倒そうとしているがうまくいっていない。
 これらの像は、ハトラの王である。左の像は、誰かは分かっていないがハトラの王で、パルティア様式の衣服に身を包み、アカンサスの葉を左の手に、そして果実を右の手に持っている。その博物館番号はMM5である。
 右の像は、“ハトラで出土した像の内でもっとも洗練されたもの”と表示されている。像の基部に書かれたアラム語碑文は、 「慈悲深く、神の高貴な心の僕にして, 神に祝福されしウサル王」と書かれている。これ以外には、統治の年代を含めて王の生涯の詳細は不明である。(1)


ビデオの0:08, 2:50, 3:11に見られるハトラの王の像。写真提供: Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.


映像の0:08, 2:50, 3:11の像。左: 誰か特定されていないハトラの王, 右: ウサル王の像。Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, p. 208-210.より

両方の像は、0:08では、ほとんど効果なく、ハンマーで殴られているところが写されている。2:50では、ウサルの像が基部で折られ、倒れるところを見せている。2:59のところで, このシーンの準備行為として、男が基部を殴っている様子が写されている。像が地面に落ちた後に、3人の男がスレッジハンマーで像を襲っている。両方の像とも破壊され、多数の破片となって床の上に転がっているのが見える。


2:53のところで、三番目の像が倒されているところが写されている。これはサナトルク二世の像で、シャープール1世によって都市が破壊される前の最後のパルティア王である。(2)
この像は、いくつかの破片から復元されたものであったため、床に落ちた際に、簡単に粉々になった。


サナトルク二世の像。写真提供: Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.


 別の彫像は、0:38に包装がとかれている。これは誰か特定されていないが、ハトラの王の像であり、古代近東の太陽神シャマシュのシンボルである鷹をかかえている。
知られているハトラの王の像は27体あり、それらのうち4体が破壊されたということは、現存するハトラの王の像の15パーセントが失われたことを意味する。(4)

 


鷹をかかえる未特定のハトラの王の像。写真提供: Col. Mary Prophit, United States Army, 2010.

像は倒されたが、これをばらばらにするためにスレッジハンマーによって多数の打撃を受けた

 

その他の大型の立像

0:40で、ビデオは博物館の小室にある2つの像を写している。右の像は、パルティア様式の服装をしたハトラの高貴な身分の人物の像である。これは発見されて後1世紀と推定されている初期のハトラ人の像の一つである。カタログ番号はMM14である。 左の像は、その服装から神官であると考えられている。発掘されたときに、頭が失われていた。(4)


0: 40, 2:43の像。Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 19, pl. 199, pp. 75, 212.より

像は両方とも、床の上に前向きに倒され、いくつかの破片へと割れた。

別の小室では、3:36で、頭のない像が見受けられる。その像は手に剣を握り、長い襞のついたズボンとケープを着用している。銘文によってマカイ・ベン・ナシュリ(Makai ben Nashri)という名の人物であることが分かる。(5) 像は横向きに基部から倒され、壁に沿った建物の一部に当たって、半分に折れた。床に落ちたときに、足がいくつかの破片に壊れてしまった。


ビデオの3:16に見られるマカイ・ベン・ナシュリの像。写真提供: (左) Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.(右) Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, p. 78.

 

ギリシャ・ローマの影響を受けた像

 ハトラにおけるギリシャ・ローマの影響は、頭のないヘラクレス像に見受けられる、像は2:48のところで、床へと倒されている。


しかしながら、部屋を写したその後の映像の3:59で像は数百の破片へと粉々になっており、おびただしい量の鉄筋が突き出している。  この様子は、ビデオ中の復元された像とも異なっている。それらは時折、復元部分を支えるための鉄筋を有しているがこのヘラクレス像のようには粉々になってはいない。Lamia al-Gailani Werr博士は、この像がレプリカであると断言している。オリジナルはバグダッドのイラク博物館のハトラの棟にあると思われる。

 0:32, 映像のはじまり近くで、ISISの戦闘員は裸体の女性の胴体の包装を解く様子を映し出した。それは、ビーナス/アフロディテの描写だと考えられる。(7) 包装が解かれた像を映し出す前に、カメラは場面転換しており、像は二度とは写されない。しかし、3:59のところで写されたヘラクレスのカットの背景の中にある破壊されたオブジェの一つかもしれない。


ビーナスの像。写真提供: Dr. Suzanne Bott, 2009.

 2:55のところで小型の像が背景に現れる。

これは、マカイ・ベン・ナシュリ像の隣にある。破壊以前の博物館の写真と比較すると、より良い概観が得られる。


写真提供: Col. Mary Prophit, United States Army, 2010.

 依然としておぼろげであるが、この映像のおかげで3:18と3:41の部分で床の上にある破片と、その像が一致することがわかる。実際の像の破壊行為は、写っていない。

これらの破片は、特に衣服の型式から、SafarとMustafaの出版物に見られる類似の像、勝利の女神ニケと確認できる。(8)
更新: Lucinda Dirven博士は、Safar とMustafaによって報告された像は、バグダッド博物館の貯蔵庫の中で無事であると述べている。しかし多くの類似するニケの像がハトラで発掘されており、それらの全てが報告されているわけではない。


ギリシャの勝利の女神ニケの像。Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 102 p. 125より

小型の彫像

この球体を左手に持った女神の座像は、0:47のところでビデオに現れる。この彫像は2:55のところで破壊される。この像は台からひっくりかえされ、床に落とされ、頭が壊れてしまった。(9)
Lamia al-Gailani Werr博士とLucinda Dirven博士によると、バグダッドに保管されているオリジナルのプラスター製のコピーであるという。


0:47のコピーのオリジナルの像。Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 250, p. 256-257.より

0:48のスチール写真は、多数のハトラのレリーフを写している。下段のレリーフは崇拝者に謁見する女神のマルテンである。右のレリーフは女神のマレンを描いている。上部、真ん中のレリーフはマルテンを再び描いており、一番左のレリーフは月神バルマレンを描いている。(10)


左から右に: バルマレン, マルテン, マレン。From Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 88, 89, 90, p. 113-115.より

 奇妙なことに、それらのレリーフは映像の最後で破壊されていない状態で登場する。

ハトラの建造物に埋め込まれた劇場タイプのマスクは、スレッジハンマーで壁から打ち落とされるところが示される。

 ハトラ遺跡の写真には、似たようなマスクが壁に埋め込まれていることがわかる。
更新: Lucinda Dirven博士は、マスクは右下に見られるようなマスクから作成された鋳造物であると示唆している。これらのタイプのマスクは、ハトラの神殿の壁に埋め込まれているようで、取り外すことはできない。


写真© Hubert Debbasch

 大きな鷹が倒されて粉々にされたところが写される。この鷹もまた、ハトラの建築物の一部と合致する。

Lamia al-Gailani Werr博士が断言するように、出版物の中の写真は、この鷹が部分的に復元されていたことを示している。


復元前のモスル博物館の鷹。From Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 133, p. 143.より


写真 © Hubert Debbasch

 3:46のところで、3つの小さなレリーフが破壊されるところが示されている。すべてスレッジハンマーによって粉々にされ、壁からはぎとられている。すべてハトラのもので、真ん中のレリーフはSafarとMustafaによって公刊されているが、右のレリーフは未公刊である。左のレリーフは同定するには、映像がぼやけすぎているが博物館の他の写真から、これが横たわる女性のレリーフであることは明らかだ。


軍人のレリーフの彫像。Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 92, p. 116.より


横たわる女性のレリーフ。写真提供: Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.


レリーフ。写真提供: Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.

 0:32のところで、背景にライオンが見られる。

ライオンは、SafarとMustafaによって公刊されている。(12)


Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 187, p. 198.

 最終的な処分は映像には写されないものの、4:02のところのおぼろげに写る瓦礫の山の一部になっているようだ。

 最後に、碑文のついた鷹のレリーフが、ヘラクレス像の左に背景の中に現れる。
破壊されるところは示されていない。

更新: Lucinda Dirven博士は、この鷹は発掘の際に都市の北門で発見され、1978年まで報告されなかったと記述している。(13)
博物館が破壊される前の写真がいくらか残っており、役立つかもしれない:


写真提供: Diane Siebrandt, U.S. State Department, 2008.

ISISのビデオには映っていない多くの遺物がモスル博物館にあることに留意することが大切だ。イスラーム芸術の棟はまったく現れていない。またアッシリアのセクションの大半も映像には出てこない。これは遺物が無事であるということを意味するわけではない。それらに関する破壊行為は、ビデオが発表される前にカットされたかもしれない。あるいは、そのような遺物は不正に持ち出され、古物市場で売られたかもしれない、またあるいは博物館にまだあるかもしれない。いずれにせよ、ビデオを見る限り、ローマ・パルティア時代の近東研究にとっての損失は甚大である。

 

破壊前のモスル博物館のたくさんの写真をアップロードしてくださったSuzanne Bott博士, 旅行の際の写真を提供してくださったHubert Debbasch氏,博物館のレプリカの情報を提供してくださったLamia al-Gailani Werr博士, さらに多くの博物館のレプリカの情報、および書誌情報を提供してくださったLucinda Dirven博士に感謝します。

 

参考文献:
[1] Shinji Fukai,“The Artifacts of Hatra and Parthian Art,”East and West 11, No. 2/3 (June-September 1960): 142-144, pl. 2-3; Fu’ad Safar and Ali Muhammad Mustafa, Hatra: The City of the Sun God [Arabic title al-Ḥaḍr, madīnat al-shams] (Baghdad: Wizarat al-Iʻlām, Mudīrīyat al-Athār al-ʻĀmmah, 1974), 197-198, pl. 208-210.
[2] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, 23, pl. 4.
[3] Fukai,“The Artifacts of Hatra and Parthian Art,” 144 pl. 4; Henri Stierlin, Cités du Désert: Pétra, Palmyre, Hatra (Fribourg: Seuil, 1987), 198, pl. 178; Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, 212, pl. 199.
[4] Michael Sommer, Hatra: Geschichte und Kultur einer Karawanenstadt im römisch-parthischen Mesopotamien (Mainz: Zabern, 2003), 75, pl. 106; Lucinda Dirven, “Aspects of Hatrene Religion: A Note on the Statues of Kings and Nobles from Hatra,” 209-246 in The Variety of Local Religious Life in the Near East in the Hellenistic and Roman Periods (Leiden, Netherlands: Brill, 2008), 220-221.
[5] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 19, p. 75.
[6] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 24, p. 78.
[7] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 84, p. 110.
[8] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 102 p. 125.
[9] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 250, p. 256-257.
[10] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 88, 89, 90, p. 113-115; Lucinda Dirven, “A Goddess with Dogs from Hatra,” in Animals, Gods and Men from East to West. Papers on archaeology and history in honour of Roberta Venco Ricciardi, A. Peruzzetto, F. Dorna-Metzger, L. Dirven (eds.), [BAR 2516] (Oxford 2013), p.147–160, pl. 8.
[11] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 133, p. 143.
[12] Safar and Mustafa, Hatra: The City of the Sun God, pl. 187, p. 198.
[13] Wathiq Isma’il al-Salihi, “Inscriptions from Hatra,” Sumer 34, No. 1 (1978): 69; al-Salihi, “Hatra – Excavations in the Southern Gate – A Preliminary Report,” Sumer36, No. 1 (1980): 158-189, pl. 3-4 [both in Arabic]; Aggoula, Inventaire des inscriptions hatréennes (Paris: P. Geuthner, 1991), 155, pl. XXVI; Inscription published in: Basile Aggoula, “Remarques sur les inscriptions hatréennes (VI),” Syria 58. No. 3/4 (1981): 363-378; Aggoula, “Remarques sur les inscriptions hatréennes. XIII Ibr. IX, XIV, XX, XXI,” Syria 64. No. 3/4 (1987): 223-229; J.B. Segal, “Arabs at Hatra and the Vicinity: Marginalia on new Aramaic Texts,” Journal of Semitic Studies 31 (1986): 57-80; Klaus Beyer, Die aramäischen Inschriften aus Assur, Hatra und dem übrigen Ostmesopotamien (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1998), p. 90.